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013  ミッチーナ→バモー→カター→マンダレー 船下りの旅 後編

3月26日

 朝4:30起床。ホテルを出て、マンダレー空港へ。マンダレー空港は噂通り、新しくきれいであったが、人影は殆どなく、ずいぶんと関さんとしていた。私たち3人はエアバガンの飛行機でミッチーナへと向かった。

 ミッチーナは、思っていたよりもずっと寒かった。3日前から降り続いている雨のせいだそう。

空港の前にある喫茶店で少し休んでから、ミッチーナで泊まるYMCAに行く車を探していたところ、空港で働くエアバガンの職員さんに声を掛けられ、トラックに相乗りさせてもらうことに。

1人は少し日本が話せる方だった。「困ったことがあったら何でも言ってくれ」と、親切だった。

 YMCAでチェックインを済ませ、 29日に乗るバモー行きの船のチケットの予約をしに。その後、ミッチーナのマーケットへ。ミッチーナのマーケットは清潔で明るかった。カチンデザインのロンジーの布は色鮮やかで、パッと目を引くものばかり。その布で作られたバッグもセンスがよく、どれを買おうか本当に迷ってしまった。

 マーケットの外では、インド系の人々がお互いにピンクや紫の粉を掛け合っていた。不思議に思って、道端のおじさんに聞いたところ、これはインド人のダジャンだそう。ミャンマーのダジャンと言えば「水掛祭り」と訳される通り、水を掛け合う祭りであるが、彼らのダジャンはそれとは全く違うものであった。

 それから、ヤンゴンでよく行く仕立て屋さんが紹介してくれた僧院へ。突然の訪問であるにも関わらず、皆さん暖かく迎えて下さった。「明日の朝、得度式があるから、是非いらっしゃい」と、ありがたいお誘い。私はまだ1度も得度式を見たことが無かったので、とても嬉しかった。バナナ1房とタニェ(黒砂糖)一袋一杯をお土産にいただき、YMCAへ。

 YMCAに戻ると、そこで日本語を教えているという女の先生に会う。とても行動的な先生で、さっそくミッソンに行くための車の手配や、先生の生徒さんたちを紹介してくださることになっていた。

3月27日

 朝8時に、日本語の先生と生徒さん1人が朝ごはんを食べに連れて行ってくれた。私はオウンノカウスエを食べたのだが、とてもおいしかった。

 午前中、昨日おじゃました僧院で行われている得度式へ。その得度式は、まだ幼い子供5人のためのもので、みんな昔の王族のようなきらびやかな衣装を着て、ほっぺにはチークを塗り、かわいらしかった。デジカメで写真を撮ってあげると、ワーッと集まってきて、自分達の写真を見て喜んでいた。本当にまだあどけなく、この子達(男の子たちだけ)が、明日から出家するのかぁ、と言うのは信じられなかった。

 午後は、その日が軍の記念日だったので、日本語の先生や生徒さんたちと、軍のお祭りに。ミッチーナの人たちは、男性も女性もほとんどバイクに乗っていて、私たちも生徒さんの後ろに乗せてもらった。女性がロンジーをはいてバイクに乗る姿は、実にカッコいい。お祭りは、広場に板で仕切りがしてあって、1コーナーずつ展示スペースになっていた。学校の研究発表があったり、政府の各省の展示がされていた。

 その後、先生の知り合いの布を織っている工場へ。新婚ホヤホヤの息子さん夫婦が出迎えてくださり、布を織っているところを見せてもらう。カチンロンジーは華やかなデザインで、うっとりと眺めてしまった。

3月28日

 今日はミッチーナで最も有名な観光スポット、ミッソンへ。メイカ川とマリカ川の2つが、このミッソンで合わさって、エーヤワディー川になるのである。ミャンマー人にとって、エーヤワディー川は無くてはならないものであり、それと同時に、このミッソンへの憧れはとても強いもののようである。

 先生は仕事のため、その生徒さん2人と、お友達、それに私たち3人、計6人で、タクシーを借りて行く事になった。ミッソンまでの道のりは約2時間。村の中の道を通ったので、人々の家、色々な植物や家畜を見ることができた。街中ではほとんど見られないが、村に入ると、それぞれの家に十字架のマーク。カチン族にはキリスト教徒が多いことをやっと確認した。その他、この辺りでは、NGOグーループの支援によって、電力の配給があるらしく、停電も少ないそう。生徒さんの1人が「街よりいいよね」と笑っていた。

 ミッソンに着くと、周りは緑の山々。ヤンゴンには無い景色で、なんだか日本を思い出した。川に入ってみると、水はひんやりと冷たく気持ちよかった。騒音も無く、静かでのんびりした雰囲気が漂っていた。地元の軍の青年会の人たちが遠足で来ていた。帰り道、ちょっと小高い丘(ジョーブン)により、景色を眺める。広々として、気持ちよかった。ここで食べたダジャーディー(スターアップル)は本当においしかった。

 その日の夜は、得度式が行われた僧院に、1泊させてもらうことに。地元のイミグレーションに届出さえすれば、外国人でも泊まれるそう。私たちは3人で一つの部屋に泊めさせていただいた。部屋は3畳くらいしかなく、裸電球1つのみ。でも、僧院の方々が、布団や蚊帳、ろうそくなどを準備してくださり、何の不自由も感じなかった。この部屋は、メディテーションのためにも使われるそう。

 明日の朝、昨日得度式をした子供達が僧侶になった姿が見れる。なんだかドキドキする。

3月29日

 朝5時起床。僧院の朝は思ったよりも静かだった。出発の準備を整えて、出家したばかりのコーイン(子供の僧侶)に会わせてもらう。この前はバッチリお化粧していたので、坊主頭、袈裟姿の今では、誰が誰だかわからなかった。小さい子は、まだまだ袈裟を着るのも1人ではできず、お兄さんが手伝ってあげていた。

 朝ごはんをご馳走になり、いよいよ出発。ミッチーナでは、本当に心の温かい方々に出会えて、とても濃い旅だった。ありがたい気持ちでいっぱい。

 船着場に着くと、北欧の漁船のような船が。それが私たちの乗るバモー行きの船だった。船の1番前の席に座る。船は満席で、地元の人たちは、荷物置き場の隙間にも乗り込んでいた。船は出発すると、冷たい風が吹きつけ、水もバシャバシャとかかり、結構寒かった。残念ながら、天気はあいにくの曇り空だったが、川幅の狭くなっているところは、両岸の岩肌が険しく、なかなかの景色であった。

 途中、昼ごはん休憩のために1度だけ停泊。トイレはどこかと探していると、地元の人たちは、その辺にしゃがんで用を足していた。それは実に器用で、ロンジーをうまく囲いにして、見えないようになっているのだった。私もロンジーをはいてはいたものの、そこまで上級者ではないので、岸の上にあるお店のトイレを借りました。

 何箇所かで乗客の乗り降りがあったが、同じところで降りる人たちはみな知り合いのようで、みんな大荷物を協力して運んでいた。カチン族の特徴らしく、今時の格好をしていても、男の子は腰に剣を差している人が多かった。私の後ろに乗っていたおじさんとおばさんが、あるところに泊まった際に、そこで降りた女の子に、「この村の~っていう人の息子が、・・・という町で、倒れた木の下敷きになって亡くなったから、そのことを伝えなさい!」と言っていた。

 午後4時頃、バモーに到着。朝8時頃出発だったので、約8時間の船旅だった。バモーの第一印象は、小さくてこじんまりとした街。船着場まで、バモーで泊まるFriendship Hotelの人が迎えに来てくれていた。ホテルはすごくきれいで、居心地のいい感じであった。

3月30日

 この日は、馬車でシュエジーナンパゴダへ。この馬車の馬が、ずいぶんとゆっくりのんびりした馬であった。シュエジーナンパゴダは、よくある普通のパゴダだったが、パゴダの周りが田んぼや畑で、とても濃い緑と、小川と、仕事をする人と牛、のどかな風景だった。ちょうどパゴダのお祭りが行われていて、食べ物や壷、手相などの屋台が数多く出ていた。

 街に戻り、昼ごはんを済ませた後、バモーのマーケットへ。これといって変わったものはなかったが、バモー名物のサーモウン(ちょっとしょっぱいビスケット)が売っていた。

 ホテルに戻って昼寝をし、夕方、夕日を見にエーヤワディーの川岸へ。川では、おじいさん、おばさん、子供達が水浴びをしていた。子供達は飛び込みをしたり、泳いだりして、元気一杯であった。中には、子供の僧侶もいて、友達に泳ぎを教わっている姿があった。川の向こうにも村があり、牛舎が行きかう様子が見えた。沈む夕日が川に写り、真っ赤になった川を舟が行く風景はすばらしかった。

 夜ご飯を食べた屋台のおじさんから、シャン族に間違われ、シャン語で話しかけられてしまった。そこの娘さんはかわいらしく、感じのいい人だった。

3月31日

 ホテルでの朝食をモヒンガーにしてもらったのだが、とてもおいしくて、おかわりしてしまった。

 3人のうち1人が、じんましんをだしてしまったので、地元の病院へ。原因はわからないものの、政府の病院だったので、治療費はタダだった。

 この日はふらふら散歩をしたり、パゴダでのんびりした。パゴダの近くの空き地では、地元の若い男性達がサッカーをしたり、子供が自転車に乗ったり、みんな思い思いに過ごしていた。また、ホテルにいる3匹の犬と遊んだりもした。そのうちの1匹、バピーは、なかなか個性的な顔立ちで、愛嬌のあるヤツだった。

 夕食はちょっと遠くのカチン料理屋へ。カチン料理は辛いと聞いていたので、「辛さ控えめで」と頼んだにも関わらず、出てきた魚料理は真っ赤で、味も相当な辛さだった。胃も口も、辛さで燃えるようであった。けれど、魚は鯛のような種類で、香草や色々なハーブが使われていて、すごくおいしかった。





終わり

written by 日野 稚子 (ミャンマーネーム Ma Ohnmar Thu)